デビュー直後に二十代で撮った『ジョーズ』以降、あまりにも名前の知られた映画人してハリウッドに君臨し続けるスピルバーグ。私などは正にスピルバーグ世代で、『レイダース』や『インディ・ジョーンズ』で育った映画ファンなので、彼の新作が公開されるといつもワクワクしながら劇場へ赴く時期があった(今はちょっと…)。 これほど成功した人物ともなると誤解も多いし、彼の作品を批判する事が通だとか、洗練された態度だと考える人が溢れ返るのは宿命なのだろうが、作品が常に話題を呼ぶ事は確かだし、現代の映画を考える上で重要な一人である事は間違いない。 私が考えるスピルバーグ映画の大きな特徴は、技術的観点から主に2つ。映像が持つ“音楽的リズム”、そして“アナログ的感性”である。これは相当に顕著な特徴だと思うのだが、なぜかほとんど指摘されない。評論家が書くのは物語の構造や表象の分析ばかりで、私には難しすぎるし、苦労して読んでみた所で、それで映画の理解が深まって感動が増すというものでもないので、個人的にはもう結構である。 スピルバーグが、キャメラワークや俳優の肉体的動き、編集や音楽によって作り出すリズムは、優れて音楽的である。80年代以後、彼の影響を受けた映画監督も随分と台頭してきたが、このリズムだけは、他の監督の作品で感じる事がほぼない。 私の知る限り、この特質を指摘した人は作曲家のジョン・ウィリアムズだけである。曰く、「スティーヴンに共感する所は山ほどあるよ。彼は身体全体にリズム感がある。このリズミックな躍動的センスが、監督をするのに大きなプラスになっていると思うんだ。彼の映画をみると、ダイナミックな力のうねりが感じられるよね」。 例としては、これはもう幾らでも挙げられるのだが、例えば『レイダース』の冒頭のエピソードやインディがアークのありかを解読する場面、終盤のクライマックス、『インディ・ジョーンズ』の生け贄の儀式、『1941』におけるダンス・パーティでの大喧嘩などなど、枚挙に暇がない。 これらのシーンをみると、単に音楽と映像がシンクロしているだけでなく、キャメラの動きや編集、役者達の動きにまで、全てが一つのリズムで統率されている事に気付く。そこでは、あるテンポから別のテンポへの移行、そのきっかけとなるアクセント、そしてクレッシェンド、ディミヌエンド、アッチェレランド、リタルダンドという、まるで音楽そのものの動きが紡ぎ出されている。 これは音楽に頼らない場合、つまり、スピルバーグがリアリスティックな効果を追求する時によくやる「音楽を使わない」という選択を行ったシーンに、より分かりやすい形で表れる。 例えば『ジュラシック・パーク』の、最初のT-レックス襲撃シーン。この場面のサウンドは、降りしきる雨の音と地響きの様な足音だけ。それなのに、ここでは全ての要素がミュージカルみたいに振り付けられ、懐中電灯の光や双眼鏡を通した視点、フロントガラスに叩き付けられる山羊の足などが、強烈な音楽的リズムを作り出す。 あるいは続編『ロスト・ワールド』の、サンディエゴのシーン。夜の港に集まった人々が呆気に取られて見つめている、その“静”の構図の中へ、巨大タンカーが減速せずに凄まじいパワーでもって突入してくる。スピルバーグはこの場面にも、一切音楽を付けない。『プライベート・ライアン』で話題を呼んだ、冒頭約30分のノルマンディー上陸シーンもそう。然るにこの、映像が奏でる不協和音の、なんと高度に音楽的な事か。 もう一点は、アナログ的感性。一見、最新のテクノロジーが好きで、特殊効果を多用するイメージの強いスピルバーグだが、実際には極力CGに頼らず、巨大セットも恐竜も海賊船も、可能な限り実物やアニマトロクスを使用している。 スピルバーグ作品の編集を担うマイケル・カーンは、90年代前半にコンピュータによるデジタル編集を提案したが、スピルバーグは「あくまでも手でフィルムを扱って欲しい」と却下したという。結局、『タンタン』で初めてデジタル編集が導入されまで、旧式の手作業編集を続けた。 これらは、彼が古い映画のファンである事とも関係するのだろうが、私はこれこそが、ジェリー・ブラッカイマー一派のようなMTV世代、ゲーム世代の監督達にはない、最大の武器だと思うのである。 科学技術で甦った恐竜が襲ってくるとか、異星人による地球侵略が始まるとか、いわゆる“尋常ではない”出来事が映画の中で起る時、スピルバーグはその“尋常でない”感覚、想像を絶する出来事が今、目の前で起こっているという実感を、身の毛のよだつほどの迫真力で観客に体験させる。 彼の映画において、吹き飛ばされた車が人物の側をかすめて落ちてくる時、その描写は単なる面白味やエキサイティングな効果だけを求めているのではない。それは、平穏な日常世界を崩壊させる未曾有の出来事が起こったという事実を、観客にヴィヴィッドに体感させる装置として作用する。描写自体が、心理的効果、感情的リアリズムと密接に関係している。この感覚は、とてもアナログ的である。 スピルバーグはどことなく作家性の希薄な監督で、それは自分で脚本を書く事がほとんどないという事もあるが、一つには彼が、作品を通じて自己の内面を表現するタイプではないからでもある。彼はただ観客と、映画そのもののために創作をするのであり、言葉の最良の意味においてエンターティナーなのだとも言える。 若い頃の彼は、あちこちで自分が「本を読まないテレビっ子」だと発言していて、それが必要以上に作品を幼稚に見せてしまったきらいもある。しかし私はむしろ、美しくシンボライズされた彼の力強い映像言語の方が、セリフで何もかも説明してしまう平板な映画より、よほど大人びていて高尚だと思うのである。 筋金入りの作品至上主義者である彼が、スタッフやキャストに厳しく高度な要求を強いる事はよく知られている。評伝等にも様々なゴシップ的エピソードが紹介されているが、常に映画の話しかせず、映画製作の知識に精通していて、作品を良くするためならあらゆる手段を厭わないスピルバーグの姿勢は、あちこちで対立や反発を生む。 人間としての彼は、特に80年代以降、歴代記録を塗り替える興業的成功を納め続けた時期、業界随一の嫌われ者という印象だった。実際、評伝のライター達もスピルバーグについて取材を進める内に「あの男は嫌いだ」とはっきり口にする人が多いのに驚いたと書いている。当時彼が量産したプロデュース作品においても、関わった監督やスタッフとの対立やトラブルの話には事欠かない。 成功者への妬みが異常に強いハリウッド社会において、超の付く成功者があれこれ言われるのは当然かもしれない。特に、狡猾なビジネスマンの顔も持つ彼を、マスコミが「童心を忘れないイタズラっ子」みたいに扱ったのが業界人の癪に触ったようだ。 ただ、スピルバーグに限らず、天才的な芸術家はみんな似たような陰口を叩かれているものだし、作品に関わる人間に対し、監督が最高レベルの仕事を求めるのは当然である。本当に才能と気骨のあるアーティストならこういう監督と仕事をしたがるもので、実際に多くの俳優やスタッフがスピルバーグと個人的な友好関係も結んでいる。 スピルバーグは神のように崇められている傲慢な人物で、幾ら頑張っても褒めてもらえなかったとボヤく人(例えば一番最初の秘書)もいるが、私にはむしろ、そういう人達の仕事ぶりこそ疑問である。実際、その中に映画界で目覚ましい業績を残した人は、まるでいないようである。 個人的には、ゼロ年代に入る前後(撮影監督ヤヌス・カミンスキーと組み出した時期)以降、スピルバーグ映画からある種のゾクゾクするような楽しさや軽快さが消えていった気がする。時代の暗さとも関係しているのだろうが、観るのがしんどい映画が増えたし、一見エンタメ系でも観るとけっこう重みがあったりする。良くも悪くも、それがつまり成熟という事なのだろう。 |