ユダヤ系アメリカ人であるスピルバーグにとっては、避けて通れない民族的悲劇であるホロコーストを扱った、エポック・メイキングな作品。悲願であったアカデミー賞の受賞も達成した他、映画作家としての作風の転換点にも当たる、極めて重要なフィルムでもあります。モノクロ(一部カラー)で、しかも3時間を越える長尺のシリアスなドラマを一気に見せてしまうテンションの高さは尋常ではなく、画面に漲る鬼気迫るような集中力と緊張感も、並の映画とは一線を画します。 モノクロの本編は、カラーで撮影された短いドキュメンタリー・シーンで挟まれ、唯一、黒澤明監督の『天国と地獄』へのオマージュだという、赤いコートの少女が戦場をさまよう場面にのみパートカラーを使用。物語は、ドイツ人実業家シンドラーがユダヤ人を組織して工場を運営し、彼らの命を救う様を描きながら、平行してアーモン・ゲート率いるナチス軍がユダヤ人達に加える、身の毛のよだつほど残虐な殺戮行為を描写してゆきます。 それらのどの場面にも、スピルバーグが今までに培ってきた効果的なドラマ構成技法やモンタージュ、映像のテクニック、サスペンス描写が縦横無尽に生かされていますが、それをもって本作が、結局は過去のスピルバーグ映画の延長線に過ぎず、所詮スピルバーグはスピルバーグにすぎないという、シニカルな見方が一定数あるのは残念な事です。どのような映画作家であれ、新しい作品(それが自身のルーツに関わる、集大成のような特別な作品であっても)に自身のセンスや能力を総動員するのは、当然の事だと思います(むしろ、そうでなくてはなりません)。 恐怖を呼び起こす描写が過剰に感じられるのは確かですが、ナチスの行為の恐ろしさを描こうという時、又、実際に起った出来事の苛烈さを想像する時、映画としてここからはやり過ぎというラインなど、誰であれ容易に設定できるものではありません。スピルバーグは、こういうサスペンスや残酷な描写がやりたくて本作を撮ったのだろうという人達もいて、その中にプロの映画監督までいるのは情けない限りですが、いかに外国人とはいえ、このような歴史観のパースペクティヴを欠いた脳天気な発言は、私には言語道断に思えます。スピルバーグにとって、この映画の撮影がどれほどの重圧と苦痛が伴うものであったか、想像に難くありません。 唯一難を言えば、ナチス・ドイツ側の人間をはじめ、全員が英語でセリフを喋るのは、フィクション性を全面に押し出している事に他ならず、日本語字幕で観る私達日本人はともかく、英語圏、そして欧州の観客にとっても、リアリズムの観点でそれは大きな壁となっているかもしれません。しかし映像の迫真力は、言葉の問題も超越しているようの見受けられるし、神がかり的なジョン・ウィリアムズの音楽も、言葉を越えたメッセージを観客に送ってよこします。そしてドラマは緊密に構成され、映像は異様な迫力を伴って、スクリーンに恐るべき所行を映し出す。 シンドラーが必ずしも慈愛に溢れた人物ではなく、むしろ最初は観客の目に、ややうさん臭い人物として映る所がポイントです。元々は博愛主義者でも人道主義者でもなく、人助けをしようと思っている訳でもない。むしろ、結果的に人の命を救った事によって、彼の中の何かが目覚めてくるようにも見えます。シュテルン達の感謝の気持ちを受けた彼が、「もっと救えたのに」と泣き崩れる場面は胸を打ちます。確かに、そうなのでしょう。彼が最初から本物の人道主義者であったなら、もっとたくさんの命を救えたのかもしれません。 でもこの場面こそが、史実に基づいた長大な作品に寓意を与えてもいるのです。この場面がある事で本作は、「今、出来る事を、後悔しないようにやろう」という映画にも見える。逆に、多くの人が指摘する最後の場面、収容所の生存者達によるドキュメンタリー・パートは、蛇足に感じられる事も否めません。ドラマとしての凝集度を損ねてまで、こういう駄目押しのメッセージをくっつけてしまう所は、スピルバーグの弱点でもある、表現の過剰さの表れと言えそうですね。 |