スピルバーグが、本格的な人間ドラマに挑戦し、アカデミー賞を一部門も受賞しなかった事が話題を呼んだ作品。作品賞を『愛と哀しみの果て』が受賞し、『E.T.』が『ガンジー』に敗れた82年度と合わせて、スピルバーグがいかにハリウッドで嫌われているかが如実に示されました。しかし本作は、「どのシーンを切り取っても、映画を作った人々の愛で輝いている」と書いたロジャー・エバートをはじめ、多くの人達に高く評価された作品でもあります。黒澤明や山田洋次ら日本の映画人達も、当時この映画を絶賛しました。 それまでのスピルバーグ作品は、ある短い期間に起った出来事を凝縮して描き込む傾向がありましたが、本作は歴史の流れを描いた叙事詩的な映画で、スピルバーグとしては初めて取り組むタイプの作品だったと言えます。原作者が付けた条件に従ってキャストとクルーの大多数に有色人種を起用し、音楽も『トワイライト・ゾーン』一作を除いてずっと組んできたジョン・ウィリアムズを外すなど、スピルバーグとしては異例ずくめの映画となりました。 又、本作は上映時間が二時間半を越えた初めてのスピルバーグ作品で、様々な点に後の作に繋がってゆく要素が見え隠れします。もっとも、私自身は長い映画には懐疑的で、蓮實重彦一派の言う「二時間に収まらない映画は、どこかが間違っている」という考え方に賛成です。本作も、後半の展開の小気味良さと比べると、前半部はテンポに難がある印象。しかし脚本、演出は基本的に秀逸と感じられ、冗長な大河ドラマになりかねない題材を、優れた洞察力に基づく緻密な演技プランと語り口、詩情溢れる映像美によって卓抜な作品に仕上りました。 演出面で特に顕著なのが、カットバックの効果的な多用。スピルバーグは必ずしも、(『E.T.』の理科室の場面のような成功例があるにしても)カットバックを好んで使う監督ではありませんが、本作では随所にこの手法を盛り込み、両場面の映像的、内容的対比によって、感情の起伏を相乗効果的に盛り上げています。教会にシャグ達が詰めかける場面はその好例ですが、印象的なのがネティの手紙のシーン。アフリカの生活を綴るネティの手紙は、ケニヤで撮影された迫力満点の映像で視覚化され、それを色々な場所で読むセリーの映像と共に、音楽に乗せて綴られてゆきます。これは、いかにもスピルバーグ的な映像的興奮と高揚感に満ちたシークエンスとして、特筆大書したい所。 繫げられています。こういう、映像のしりとりみたいな編集はスピルバーグの得意とする所で、本作でもそこここで開陳。タイトルの“カラー・パープル”からの連想として、お花畑をはじめ、映像に紫色を印象的に使ったカラー・パレットの選択も見事です。 シニカルな調子で辛口の原作を口辺りの良いタッチに変え、性的に過激な場面も避けられているとの事で、映画はかなり批判を浴びました。しかし、私は小説と映画は全く無関係の別物で、原作と違うからダメな映画というのはナンセンスだと考えます(そもそも、観客の多くは原作を読んでいません)。あくまでも、原作にインスパイアされた個別の作品として観るべきだと思います。いかにもスピルバーグらしい、生き生きとした場面の数々(アルバートがデートの準備で慌てる場面や、ネティがセリーに文字の読み方を教えるシーンなど)は、彼とメノ・メイエスによる創意工夫の賜物として楽しむべきものでしょう。 原作共々、男性批判、男性嫌悪的な内容が問題にされてきましたが、そういうのは木を見て森を見ずというのか、本質を見失っているように思います。本作は何よりも、「母親が子供を取り返す物語」という、スピルバーグがデビュー作以来繰り返し描いてきた主題を中心に据えた映画です。たまたまこの時代、この環境では男性が悪者になっているけれども、根幹となるテーマやストーリー自体は、極めて普遍的な問題を扱ったものと言えるのではないでしょうか。 兎にも角にも、これほどクオリティの高い、優れた映画がアカデミー賞で一部門も受賞できず、監督賞に至ってはノミネートすらされないというのは、異常な事態という他ありません。スピルバーグに対してどのような個人的感情があるにせよ、『E.T.』や本作を無視して『ガンジー』や『愛と哀しみの果て』のような映画に投票するアカデミー会員達の気が知れませんね。映画人としてのセンスと良識を疑います。 |