これまでも数々の作品で背景にしてきた第二次世界大戦を初めて正面から描いた、スピルバーグにとっても映画史的にも重要な作品。実話ではないものの、大戦時に実際に下された任務からヒントを得たオリジナル脚本で、これに絡めてノルマンディー上陸作戦を、徹底したリアリズムで再現しています。実際にあった任務というのは、4人兄弟のうち3人が戦死した事が分かり、4人目の兄弟である2等兵を捜し出してアメリカへ帰還させるため、1部隊が送り込まれたというもの。 話題を呼んだのが、冒頭約25分間に渡って延々と繰り広げられる、ノルマンディー上陸作戦の凄惨な描写です。上陸船の扉が開くや兵士達の身体は次々に吹き飛ばされ、海中に沈みながらも容赦のない銃弾に貫かれる、ある者は内蔵を露出させ、ある者はちぎれた自分の腕を抱えながら浜辺を彷徨い、むごたらしく死んでゆく。楽勝と考えられていたこの大作戦が、むしろ失敗であり、事実上はドイツ軍による大虐殺であった事を、冷徹なまでに生々しい映像で示した、画期的な場面です。 この場面は、本当に恐ろしいです。俳優達が現場で本物の恐怖を感じたと証言している通り、観客も自らが兵士となって、逃げ場のない苛烈な戦場に放り込まれる思いがします。スピルバーグはやはり、この長い場面に音楽を一切付けませんが、このコンセプトは中盤の戦闘シーンでも、クライマックスのラメルの場面でも貫徹しています。さらに本作では、撮影に手持ちキャメラを使い、不安定で粒子の粗いドキュメンタリー風の映像で対象を捉えています。監督によれば、「従軍キャメラマンが撮ったような映像」をイメージしたとの事。 それでも今の目で観るとこの上陸場面は、ドイツ軍側の視点ショットが入っていたりするし、多少なりとも映画的効果を意識した演出(通信士の顔面が、三度目に話かけた時に陥没していたり、ヘルメットに救われて「運がいい」と言われた兵士が直後に狙撃されるなど)が施されていたりします。これに対し、本当にリアルで映画的な味付けさえも吹き飛んでいるのがクライマックス、ラメルの戦闘シーン。ここは描写も即物的で手加減がなく、スピルバーグが遺憾なく発揮する天才的なスペクタクルの才に、観客はただただ固唾を飲み、身を固くしながら戦いの行方を見守るしかありません。 それでいて、実は背景となる廃墟と化した街や橋、その下を流れる川までもがみな、人工的に作られたセットなのですが、メイキング映像で撮影風景を観た後でさえ、何もかもがあまりに真に迫っているため、全てが作り物だとは微塵も脳裏をよぎりません。それにしても、橋の上や下、路上、壁や穴やバリケードの外と内、鐘楼の上、住居の窓など、あらゆる視点を駆使して兵士達の攻防を捉え、それらの素材を、異様に高いテンションで繋ぎ合わせるスピルバーグの演出力には、ほとんど畏怖の念すら覚えます。これらの場面を、絵コンテもなしに現場で直感的に構成したというから信じられません。 死んでゆく兵士達に「ママ、ママ」と叫ばせているのは、現実にそうであったのかもしれませんが、映画のテーマとして、これが、ライアン二等兵を本国の母親の元に帰すというプロットにリンクしているからでもあるでしょう。戦争映画ではありますが、彼ら兵士の一人一人がそれぞれ母親の元に生まれ、それぞれの家庭で大切に育てられた、各自の顔と名前を持った存在である事、その事実をスクリーンに刻み付けるという行為を、スピルバーグは映画全編を通じて繰り返し行っています。だからこそ、本作はこの大戦で戦った人々へのレクイエムとして存在しうるのだと思います。 物語のもう一つの軸は、ミラー大尉が一体何者なのかという謎ですが、これもまた、彼ら兵士がみな軍人ではなく、普段は別の職業を持つ普通の一般市民だったという主題に繋がっています。だから、スピルバーグは敵であるドイツ軍兵士達にも個人としての顔を与えているし、両手を挙げて降伏しているドイツ人兵士を米兵が射殺するというような場面も、目を背けず描き切ります。ミラー大尉が、二人目の部下を失って慟哭する姿を描く一方、敵の塹壕や戦車の中へ容赦なく機銃掃射を浴びせる姿もきっちり捉えている。 中には、何気なくもたれた壁が崩れるとドイツ軍がいたというドタバタ・コメディみたいな場面や、米兵に娘を預けようとしたフランス人の父親が、泣きじゃくる娘から激しく叩かれるという、切なくもユーモラスな場面もあります。ロバート・ロダットの脚本は、戦闘シーンの構成やストーリー・ラインだけでなく、繊細で洞察力に溢れたダイアローグが秀逸。スピルバーグが昔から言っている、「セリフにはウィットが欠かせない」という方針にも合致していて素晴らしいですが、現場では俳優のアドリブもどんどん取り入れたとの事。 本作は、プロローグとエピローグの現代パートによって、大戦時の本編がサンドイッチされる構成になっていますが、映像があたかもライアン二等兵の回想のように編集されている所を、ことさら過敏に指摘する評論家や映画ファンがいます。要するに、ライアンが登場するのは映画の後半になってからで、前半部分においては、彼は主人公どころか登場人物ですらない。そういう構成は乱暴だというわけです。これは『ミュンヘン』でも、主人公が実際に見ていない殺戮場面のイメージに付きまとわれるという、同じ問題を抱えた描写があります。 そもそも、この現代の場面自体が不必要であるかのように言う某大物評論家もいますが、私には論外と思えます。結局、本作の最も大きな主題は、多大な犠牲と引き換えに生還したライアン二等兵が、その犠牲に値する人生を歩んでこれたのか、ということです。ミラー大尉の「無駄にするな、より良く生きろ」という遺言を片時も忘れる事なく生きてきたライアンは、家族達と墓地を訪れ、その答えを暗黙の内にスクリーンの中で示します。そして当然ながらこのライアン二等兵は、多くの犠牲と引き換えにこの世界で生きる自由を得た後の世の人々(つまり私達)を代表している。 『シンドラーのリスト』が、オスカー・シンドラーの悲痛な悔恨を通した「今できる事を、精一杯やろう」という寓話であったのと同じく、この場面が本作を、「自由を手にしている私達は、より良く生きよう」という寓話にしているわけです。この場面がなくていいというのは、作品の本質を著しく見誤った見解という他ありません。又、ライアンのクローズアップ・ショットからノルマンディーの場面に繋いだからといって、必ずしもそれをライアンの回想と解釈しなければいけないルールなどありません。そういう描き方をする映画が多いというだけの話で、ここでは、ライアンに何が起り、なぜ今ここにいるのかという物語が始まる、と捉らえればいいだけの事ではないのでしょうか。 元々早撮りで有名なスピルバーグですが、本作は準備期間が短かった事もあり、入念なロケハンを行わず、絵コンテも作らないで、現場でイメージを広げていったそうです。メイキング映像を見ると、助監督も拡声器で「時間を大切に、きびきび動こう!」と指示しています。セットも現場で初めて見るから、まるで報道カメラマンになった気分で、本気で「仲間と生きて帰りたい」と実感したとの事。俳優もほぼぶっつけ本番で、正に兵士と同じような心境に陥ったそうです。 それでも、炎や爆薬を多用するノルマンディーの場面は安全優先のため撮影ペースが落ち、監督も「午前と午後に2カットずつなんて、ここ数年なかったスロー・ペースだが、安全を重視すると速くは動けない。その上、史実に忠実にとなると、派手さより細部への配慮が大切になるしね」と語っています。又、ラメル村の場面の撮影現場では、俳優達からも撮り方のアイデアが次々に出されている光景が見受けられます。独裁的にみられがちなスピルバーグですが、「人の意見によく耳を傾ける監督」とコメントする人も多く、そう言えば昔から「この場面は誰それのアイデアなんだ」なんてよく言っていましたね。 |