インディ・ジョーンズ・シリーズの第一作。興行的にも大成功し、前作『1941』の汚名を返上しました。本作は、スピルバーグが友人のジョージ・ルーカスと初めて仕事上で組んだ作品でもあり、当初の約束通り(あくまで友人としての約束で、正式な契約ではないそうです)三部作が完成された上、後年にシリーズ4作目も作られました。 私個人の見解を言えば、物語構成も演出もシリーズ中で最も完成度が高く、スピルバーグの全作品中でも屈指の出来映えを誇る名作ではないかと思います。何よりも、重厚でありながら細部まで周到に練られた演出が素晴らしい。これが第2作になると、いかにもハリウッド風のアトラクション型エンタメになってしまい、第3作では雑多な要素を詰め込みすぎて印象が散漫になり、数十年後の第4作では製作陣も俳優も年齢的な衰えを隠せないといった感じで、手放しで絶賛したくなる続編はありません。 本作はまず、アークをめぐって旧約聖書とナチスが絡むストーリーに、ある種の特異な説得力があります。荒唐無稽ではあっても、映画の中では積極的に受け入れたいプロットというのでしょうか。そこにインディ側、ナチス側、さらにライヴァルのフランス人学者まで入り乱れるキャラクター設計は、ナチスの描写にやや誇張がみられる事を除けば、これも映画として楽しく受け入れられる範囲のものです。 ペルー、ネパール、カイロと舞台を移動しながら展開するアクションも、それぞれがアイデア豊富でエキサイティングだし、遺跡や迷路、ジャングル、潜水艦など、アドベンチャーを盛り上げる仕掛けにも事欠きません。クライマックスには、ほとんどホラー映画めいたオカルティックな山場が用意されていて、これも冒険活劇としては意表を衝く感じで斬新。何より、各場面の配置のバランスが絶妙です。これが続編以降になると、どうも場面ごとのテイストの落差が極端だったり(第2作)、逆にファジーだったり(第3作)、テイストそのものに掴み所がなかったり(第4作)と、うまく行きません。 スピルバーグの演出は誠に生き生きとしていて、画面全体に躍動感が溢れます。特に、場面を振付ける際に見られる天性の音楽的リズム感は、映画のそこここに表出。例えば、オープニングのシークエンスは、構成といいテンポといい、全体がまるでオペラの序曲のようだし、インディがアークのありかを解読する場面の山場の築き方、マリオンが誘拐される場面の軽妙かつスピーディなスケルツォ的感覚にも、監督のセンスが冴え渡っています(音楽も見事)。 そして、クライマックス。捕らえられたインディとマリオンの前で、ナチスとベロックらの手によって遂にアークの蓋が開かれる、この場面の造形の妙といったらどうでしょう。神秘的なジョン・ウィリアムズの音楽に乗って、妖しく舞い漂う亡霊達、その姿に思わず「美しい!」と叫ぶベロック。やがて、音楽が劇的に高揚し、一体の美しい女性の幽霊がキャメラに向かってゆっくりと飛来。ところが、音楽の高まりが頂点に達し、幽霊がキャメラの正面に近接した所で、その姿が怖ろしい憤怒の形相に変貌、音楽も急変し、強烈な不協和音を叩き付けてきます。映像と音楽が共に、アダージョからプレストへとギアチェンジするわけです。 これらの場面の、キャメラの動きや、編集と音楽の流れ、俳優の芝居、そういう物のいっさいが作り出すリズム、つまり監督スピルバーグの“演出”が、まるで音楽の様に優美で、ドラマティックで、そういう感覚というのが、何もこの場面だけに限らず、スピルバーグ映画では要になっているのに気付きます。 倹約家ルーカスがプロデュースを務めた事で、予定より12日早い73日で撮影を終了。製作費も安く仕上がりました。スピルバーグは綿密なストーリーボードに基づき、派手なキャメラワークを駆使した見せ場の多くをばっさり割愛。セカンド・ユニットによる別班撮影も初めて取り入れ、一日に10回ものセットアップ、最大20ショットもの撮影をこなして、ストーリーをシンプルに語る事に徹しました。出演者のポール・フリーマンも「あんなに全速力で動くキャメラ・クルーは見た事がない」と語っています。 有名な話ですが、インディが手強そうなナイフの使い手を一発で撃ち殺す場面は、下痢にやられたハリソン・フォードが長時間の撮影に耐えられなくなった事から生まれたアイデアです。又、DC3がヒマラヤ山脈上空を飛ぶショットはコロムビアの『失われた地平線』のリメイクから、30年代の街頭シーンはユニヴァーサルの『ヒンデンブルク』からフィルムを借用したもの。さすがに他の作品でそういう継ぎはぎはやっていませんが、後年のスピルバーグ映画で展開される早撮りのスタイルは、本作が出発点かもしれませんね。 |