スピルバーグ自身の自伝的ストーリーを映画にした、集大成的な作品。出来事の順序を入れ替えたり、複数の人物を混ぜたりしたキャラクターはあるものの、全て実際にあった出来事だそうである。アカデミー賞7部門にノミネート。 正直な所、この企画を最初に聞いた時は、ちょっとどうなんだろうと危惧した。センチメンタルな自伝を大仰な演出で見せられても醒めてしまうかもしれないと思ったのだが、蓋を開けてみれば全くそんな内容ではなく、素晴らしい作品だった。むしろこの20年のスピルバーグ作品を振り返っても、特に傑出した一作かもしれない。 オタクのユダヤ人少年がいかにして映画監督になったかを描く話がメインかと思いきや(それもプロットに含まれるものの)、実際には、崩壊してゆく関係性にもがき苦しむ家族の人間模様。勿論、それはスピルバーグ一家に実際に起こった事ではあるが、物語としては誰もが普遍的に受け取れる、エモーショナルな人間ドラマである。 それは意図的な取り組みだったようで、脚本のクシュナーも「スティーヴンのファンや家族のための映画じゃだめだ。ただの自伝的映画ではなく、色々な人生経験をしてきた人たちが共感できる物を作りたかった」と語っている。それは完全に成功していると思う。 冒頭、サミーが両親に連れられて映画館に行く場面。怖がるサミーを、両親が説得する。父親は1秒24コマの連続写真を残像と共に見せるとか何とか、映画の仕組みを詳しく説明する。これは同時に、スピルバーグが生涯をかけて取り組んできたメディアの仕掛けを、観客に改めて解説する場面になっている。 今度は反対側にいる母親がサミーを自分の方に向かせ、映画とはどんなに素敵で夢に溢れたものであるかを説いて聞かせる。これは同時に、スピルバーグによる映画への愛の表明、映画へのラヴレターになっている。何と二義的で、シンボリックなシーンだろう。 劇場用パンフレットに寄稿している南波克之氏をはじめ、多くの評論家が指摘する通り、スピルバーグは対立する2つの立場のいずれかに肩入れせず、双方に理解を示して和解を模索する性質のある映画作家である。南波氏の著述の通り、過去作の多くにその構造や表現が見られる。それがキリスト教的な善と悪、光と影の二項対立的な概念に対する、ユダヤ人としての立場ゆえかどうかは分からないが、この冒頭シーンはその意味でも象徴的な構図を提示する。 断片的なシーンを淡々と繋ぎ、世界を積み上げてゆく語り口は、スピルバーグ自身が脚本を書いた数少ない映画、『未知との遭遇』や『ポルターガイスト』と共通する手法である。逆光を利用した立体的な照明スタイルも、アレン・ダヴィオーが撮影を担当した初期作品のスタイルに近い。竜巻の場面でショッピング・カートの群れが道路を走ってくる描写も、顕在的な物理現象を描いて異常な出来事を予感させる、スピルバーグお得意の手法だ。一方、全編に流れるクラシックのピアノ曲は、スピルバーグ作品には珍しい貴族主義的な空気感も醸成する。 又、サミーの成長に従ってキャメラや編集機材もどんどん本格的になってゆくが、それらを具体的な機種名で細かく見せてゆくのも映画の中では珍しいし、どこか映画メディアに関する自己言及的な描写にも思える。本作がスピルバーグにとって一つの集大成である事は、単に自身の伝記を脚本にしているだけでなく、そういった象徴的描写の数々や、過去作の手法を踏襲している所からも強く感じ取れる。 それでもスピルバーグは、ノスタルジーに過剰に耽溺したり、映画に無条件の愛を捧げたりはしない。その点で、冷徹なまでの作品至上主義者ぶりはここでも健在である。ここで描かれるスピルバーグ一家の歴史は、実にほろ苦く、傷みを伴うものである。映画製作の上でとはいえ、自分の家族、自分の人生のダークサイドと向き合うのは、生身の人間にとって並大抵の事ではないだろう。 彼は同時に、キャメラがいかに残酷な現実をもヴィヴィッドに捕らえてしまうかという側面を明らかにする。キャメラが暴くのは一家の秘密だけではない。サミーが撮影した学校のイベント映画の場面でも、この問題は拡大されて再び描かれる。彼がキャメラを処分して映画から足を洗おうとする場面があるが、主人公(=スピルバーグ)が映画に対してこんな愛憎半ばする感情を持っていたと知れば、彼の映画への献身に改めて打たれずにはいられない。 スピルバーグ組総動員で臨んだスタッフ・ワークも一流だが、俳優陣が誠に素晴らしい。特に、当時から相当に個性的だったと家族も認めるミッツィとバートに全身全霊で共鳴し、その人生をスクリーンで生きているミシェル・ウィリアムズとポール・ダノの演技には息を飲む。 異才デヴィッド・リンチ監督が演じるジョン・フォードも含め、脇役陣も全く真に迫っていて、2時間半の長尺を強靭な集中力と高いテンションで観せる凄さ。唯一、ラストの演出(キャメラの動きでフォード監督の言葉の伏線回収)は小粋に感じられる反面、重厚な大作の締めくくりとしては様式的に違和感が無くもない。 |