スピルバーグが何度も描いてきた、異星生命体と人類の接近遭遇がテーマ。友好的、感動的だった過去作品のエイリアンとは真逆で、本作では人類を食料としか考えておらず、それはどこか、人類が他の動植物に相対する姿勢と重なり合うようにも見えます。監督自ら本作を「SFホラー」と呼び、アメリカ同時多発テロの恐怖を反映している事も認めています。 襲撃シーンは正に地獄絵図で、その恐ろしさ、容赦のなさは苛烈を極めます。こういう映画におけるスピルバーグの演出手腕には他の追随を許さぬセンスがあり、正に水を得た魚のよう。五叉路におけるトライポッドの登場シーンや、フェリーボートの襲撃場面など、音楽的リズムに裏付けられた編集と場面構成は相変わらず健在だし、地面に転がったビデオカメラの液晶画面に惨劇が映し出されるというユニークなアイデアなども卓抜です。 「もしアメリカ人が難民になったとしたら」という裏テーマもあり、アメリカ人難民なら一体どういう姿になるかという点から、衣装デザインや小道具などが考察されています。そうやって実現した難民避難場面のルックは、米国の観客にとってはとりわけショッキングに感じられたかもしれません。一方で、偵察用の触手が地下室に伸びて来る場面は、『ジュラシック・パーク』におけるラプトルと子供達の攻防シーンの自己模倣的な焼き直しに見えてしまって、少々残念でもあります。 脚本のデヴィッド・コープが言及している通り、異星人侵略物によく出て来るありきたりな描写は注意深く外されています。例えば、有名な建物や観光名所が破壊される場面や、大きな地図を司令官達が取り囲む場面、テレビの取材班が撮影する場面などは、本作にありません。今、世界で何が起っているかという情報は、あくまで口コミの噂だけで伝えられ、徹底して主人公の目線から出来事を描く事で、閉所恐怖症的な不安感を煽るのに成功しています(原作も一人称で綴られており、他所の情報はシャットアウトしています)。 人体を蒸発させる殺人光線がトム・クルーズにだけ当たらないので、「エイリアンは主人公を特別扱いしている」と実に表面的な解釈をする人がありますが、それは見当違いです。こういう物語は、たまたま生き延びた人間の目線で語られているのであって、災害の現場においてはそれも常に起っている事なのです。又、本作では異星人もトライポッドも、異様さを強調するために3本足のデザインが採択されていますが、これをムービーキャメラのメタファーだとする某評論家の解釈は、自分に都合の良い論理に引き寄せたこじつけとしか感じられません。 ただトム・クルーズが逃げ惑うだけの作品だという人もいますが、中心となるストーリーラインがそれだけシンプルで強力という事であって、実際には様々な観点からこの非常事態が考察されています。ティム・ロビンス扮する、悲哀と正義感が暴走して狂気に近付いた男性も登場すれば、一台の車を奪い合って人間同士が殺し合いにまで発展するエゴの描写もあるし、主人公が子供と逃避行を続ける内に父性を育んでゆくという成長物語もある。映像描写的にも観念的にも、本作はスピルバーグにとって、ひいてはアメリカ映画にとって重要な作品であり、黒沢清監督が内外の様々なメディアでこの年のベスト10に本作を入れていたのは、象徴的な行動だという気がします。 本作は大規模な内容にも関わらず、準備に3か月、撮影期間70日、ポスト・プロダクション3か月という、異例の短期間で製作されていますが、こういう際のスピルバーグの態度は見事という他ありません。彼は製作のキャスリン・ケネディにこう言い放ったそうです。「別に心配する事はない。中心的な人物が3人ほどいて、あとは背景で1000人くらいの人々が時々走り回るだけだ」。 ケネディによると、スピルバーグはいつも大掛かりな撮影からスケジュールをスタートさせますが、それが俳優やスタッフの士気を高め、映像に現れると考えているそう。本作の場合、東海岸では交差点のシーン、西海岸では墜落した旅客機のシーンから撮影を開始しています。後者は、現実には見られない映像だからどうしても撮りたかったとの事ですが、これは全て本物のオープン・セット。彼がいつも実物大のセットを用意する理由に関しては、メイキング映像にある以下の言葉を引用しておきたいです。 「実際にセットを作るハリウッド伝統の手法を、一生使い続けたい。ブルー・スクリーンはイメージが湧かず、味気ない。舞台を作り出す人々を尊敬してるんだ。セットを歩き回っているとアイデアが湧いてきて、自分が何をすべきかを教えてくれる。セットが全てだよ」。 |