米ソ冷戦時代のスパイ交換を描く、史実に基づいた政治的ドラマ。スピルバーグは、とりわけこの分野への執着が強いようですが、作品は実に求心力が強く、俳優陣の好演も手伝って、すこぶる緊密に構成されたドラマとなっています。強いて言えば、ドノヴァンがなぜ敵国スパイの弁護にここまで執心するのか、さらに掘り下げて描かれれば共感の度合いが増したかもしれませんが、すでに盛りだくさんの2時間半ですし、何もかも描き込むのは無理というものでしょう。 ニューヨークでのアベル逮捕を、緊迫感溢れるオープニングとして配置し、彼の弁護を依頼されるドノヴァンのドラマ、裁判の過程と彼や家族に対する批判や迫害、アベルとの出会いと交感が、ソ連で捕虜となるパワーズのドラマと交互に描かれるのが前半部分。コーエン兄弟がトム・ハンクスの持ち味を生かしてキャラクター造形した脚本は、重厚な演技合戦や、ユーモアと人間味が溢れるダイアローグを盛り込んで秀逸な仕上がりです。 後半は東ドイツに移り、アメリカ人留学生プライヤーの逮捕と、政情不安定な外国でスパイ交換作戦に奔走するドノヴァンのドラマを展開。全く惚れ惚れするほど手際良いドラマ構成で、そこに過去のスピルバーグ作品を彷彿させる要素、例えばリアリティ溢れる情景描写、エンタメ精神溢れる数段階の交渉場面、スリリングなサスペンスを緩急巧みに散りばめて、感動的な大団円を迎えます(ドノヴァンの妻の表情に全てを集約させたエンディングは、暖かな情感が満ち溢れて素晴らしい!)。 ドラマやアクションの演出が一級のクオリティなのは、改めて言うまでもない事ですが、個人的に感じ入ったのは、後半部、東西ドイツの描写の凄さ。特に、映画で初めて目にするのではというような、ベルリンの壁建設と町の混乱の映像は、圧倒的な迫真力で観る者に迫ります。自転車に乗ったプライヤーの姿を建設中の壁沿いに追う長回し撮影などは、大勢のエキストラを使った周辺状況の再現と共に、正に圧巻という他ありません。壁を越えようとした人々が射殺される様を、ドノヴァンが電車の車窓から目撃するという、これが映画だという事を忘れさせるほど凄味を帯びた場面もあります。 ラストで、ニューヨークの地下鉄に乗っているドノヴァンが、フェンスを乗り越える少年達の姿を見る場面は、ベルリンの壁の凄惨な射殺シーンと見事に対比されている訳ですが、これはハンクスのアイデアを現場で即時採用したもので、スピルバーグも「トムのおかげで良いエンディングが出来た」と語っています。しかし、実は映画全体もコントラストをテーマにしたような作りで、アベルとパワーズが捕虜になる過程やその待遇をめぐっては、米国とソ連の状況がが意図的に対比されていますし、それによって、アベルの救済がパワーズのそれと相対的に同義なのだという事を、目に見える形で明瞭に示しています。 対比の構図は後半部にも適用されていて、壁によって物理的にも象徴的にも分断されてしまったベルリンの東側、西側の相違を、映画はドノヴァンの行動を追いながらそれとなく背景に示してみせる趣向。壁は低く、映像的にも両方を見せられるロケーションで、そこで対比された文化は、クライマックスのスパイ交換の場面でシンメトリックに交差します(ここもまた、双方を同時に見せる場面です)。 対比の語り口は、両者の相違を際立たせる効果も当然ありますが(そして、やはり共産主義の側をより非道にも、不条理にも描いてはいますが)、同時に共通点を描く事にもなっている所に、スピルバーグ映画らしいヒューマニズムが立脚するポイントがあるようにも思います。東側でいかにも官僚主義的に待たされている間、まだ若い係員を一人捕まえてフランクに話しかけ、心を通わせようとするドノヴァンの姿は、正にその象徴といった所でしょうか。 ちなみにスピルバーグは、ベルリンには映画の宣伝でしか来た事がなく、撮影は初めてだったとの事。スパイ交換場面は実際のグリーニッケ橋で撮影されていますが、ここではメルケル首相の訪問を受け、首相と一緒にスタッフ、キャストが記念写真を撮っている姿もメイキング映像に収録されています。 |