往年の人気テレビ番組『トワイライトゾーン』を、映画でリメイクしようといういかにもスピルバーグらしい企画。『アニマル・ハウス』『ブルース・ブラザーズ』の監督ジョン・ランディスとプロデューサーを兼任し、スピルバーグ、ランディス共に一話ずつ監督、さらに『グレムリン』のジョー・ダンテと『マッドマックス』のジョージ・ミラー監督も参加して、大変ユニークなオムニバス映画となった。 スピルバーグ篇は、オリジナルでは『缶蹴り』というエピソードで、老人ホームを舞台にした心温まるファンタジー。新入りに誘われて、夜中に缶蹴りをした老人達が少年少女に若返っていたというお話。『E.T.』とほぼ同じスタッフを登用し、ファンタスティックな映像を作り上げているが、オリジナル版にはないピーター・パンのようなキャラクターを加えており、その子供じみた現実逃避的なメッセージ性は大きな批判を浴びた。 私にはその事よりも、演出自体の人工的な凹凸や、過剰なセンチメンタリズムが鼻につく。他の3つのエピソードが類を見ない傑作なだけに、何かを糊塗しようとしたような無理のある語り口や、何か監督自身の存在感を消そうとするかのような覇気の無さによって、本作は全篇中の大きな欠点となってしまっているように思う。 彼がこのエピソードを選んだ背景には、プロローグと第1話を監督したジョン・ランディス篇の撮影中に起った、事故の影響がある。主演のヴィック・モローと二人のアジア人の子役の真上にヘリコプターが墜落し、三人共が無惨な死を遂げたのだ。この事故の映像は、一体どこから流出したのか日本のテレビ番組でも当時よく流れた(当時は、人の死の瞬間を集めた悪趣味な特番がよく放送されていた)。 業界でもこの事故はスキャンダルとなり、当夜の現場におらず、本来なら責任を追及される立場にはなかったにも関わらず、最後まで法廷に立たず逃げ通した事で、スピルバーグはマスコミや関係者から激しく攻撃された。 さらに製作総指揮のマーシャルも、『インディ・ジョーンズ』のロケハン名目で海外に逃亡するなど、あの手この手を使って司法の手から逃げ続け、結局一度も法廷に現れない。この件では、スピルバーグとその取り巻きには法律も通用しないのか、彼らは現実よりも夢の世界で遊び半分に生きているのかという、厳しい批判にさらされた。 イメージ・ダウンを恐れた彼は、即座に本作から手を引こうとしたものの、スタジオは契約の履行を求めた。ワーナー・ブラザーズにとっては、何と言ってもスピルバーグの名前が冠されなければ、企画の価値が下がってしまう。嫌でも本作に関わらざるを得なかった彼は、出来るだけ恐怖を感じさせない、優しいテイストの物語を選んだ。本当かどうかは分からないが、撮影現場での彼はうわの空といった感じで、信じられないほど投げやりな仕事ぶりだったと言われている。 しかし結果的にこの態度によって、スピルバーグの映画界における名声は失墜した。彼はますますアンブリンという偶像崇拝的な組織に閉じこもって映画を製作するようになり、どことなしに生彩を欠く作品を頻発するようになる。自身の監督作もその後の約10年間、『ジュラシック・パーク』か『シンドラーのリスト』を完全復活と見なすなら、それまではかなり迷走した印象を受ける。 ファンである私ですら、スピルバーグの作品自体は楽しんで観るけれども、人間としての彼を尊敬する気持ちは未だに持てない、というのが正直な所。本作のパートナーだったジョン・ランディス監督を、事故のあと絶縁してしまった事も、個人的には許し難い(スピルバーグへの抗議か、ランディスへの激励か、ランディスの映画には多くの映画監督達がカメオ出演するようになる)。 スピルバーグに責任があるとは言わない。実際にも法的にも、彼に責任はなかったのだろう。問題は彼が見せた誠意に欠ける態度である。この事故は、彼が自らの人生を終えるまでに必ず向き合うべき過去だと、私は思っている。それが出来なければ、『シンドラーのリスト』も『プライベート・ライアン』も『リンカーン』も嘘八百になってしまうのではないだろうか。 |