私のような、80年代に青春期を送った映画ファンであれば、リドリー・スコットの名前は『エイリアン』『ブレードランナー』という不滅のSF作品で世に出た映像派として記憶されているだろう。そして、もしかするとその後しばらくのキャリアが低迷と考えられた事も覚えていらっしゃるかもしれない。逆に、『グラディエーター』以降にスコット作品を知った映画ファンなら、大作を得意とする巨匠という認識だろうか。 スコットのフィルモグラフィを俯瞰で見ると、パーシー・メイン・プロを立ち上げて以降は、監督よりもプロデューサーの仕事が圧倒的な比重を占めている。そもそも前の会社で3000本ものCMを作っており、その中には製作費100万ドルと噂された(実際には35万ドル)アップルの初代マッキントッシュCMもある。これは84年、アメリカのスーパーボウル中継で1日しか放送されなかったにも関わらず、今だにダウンロードする人が絶えない傑作として名高いCMである。 ともかく仕事人としてのスコットは、映画監督というよりまず製作者、会社経営者である一方、その性質は自身の監督作にも生かされている。時に、彼の監督作を振り返るとデビューからの3作で歴史劇、SFという、スコットのフィルモグラフィの大きな柱である2つのジャンルが出揃っている事に驚く。もう1つの柱である裏社会物も、『ブラック・レイン』で開花する前に『誰かに見られてる』、さらに遡れば『ブレードランナー』のフィルム・ノワール調にもその萌芽が見られる。 スコットの作品を考える時、「美」と「暴力」という2つの視座を抜きにして語る事は困難である。前者に関しては、デビュー当初から自他共に認める映像美の探求者であった訳だし、暴力描写の苛烈さも衰える気配がない。さらに挙げれば、彼の映画は総合芸術として驚くべき高みに達しているにも関わらず、抑制を効かせたクールな語り口ゆえ、正当な評価を受けてこなかった経緯がある。この3つの点を、さらに掘り下げて考えたい。 スコットは『キングダム・オブ・ヘブン』のキャンペーンで来日した際、「どんなテーマであっても、自分が美しいと思うものをそこに差し出す。私は長年美術を学んだせいか、どんなものにでも美を見出す性分なんだ」と発言している。実際、彼の作品では全てのシーンが例外なく美しく仕上げられていて、これほど徹底して映像美を追求する映画監督は、ちょっと他に名前が浮かばない。 製作者チャールズ・J・D・シュリッセルによると、「ロケハンに行ってどんな映像になるか大体分かったつもりでいると、撮影されたラッシュが想像と全然違うんだ。リドリーは誰とも違う視点で世界を見ている。実際にはつまらない、薄汚い場所でも、美しさが最大限に強調される。オフィスの場面では、机の高さにキャメラを置いて机の上に映し出される光と影を捉え、窓の外の情景を撮る。彼にとってそれはただの机じゃなく、キャメラを通して雰囲気を高める道具なんだ」。 スコットの映像へのこだわりは恐らく職業病というか、映像は常に美しく撮るものだという癖ではないかという気もする。『デュエリスト/決闘者』では、凝りに凝った照明をベテランの撮影監督から批判されたりもした。『テルマ&ルイーズ』等で組んだ撮影監督エイドリアン・ビドルは、「リドリーの作品では朝に現場へ行って、そこいら辺にライトを2、3個吊るしたら、もう昼食時になってしまうんだ」と笑っていた。 スコット作品の映像美は又、背景の自然や巨大セットも活用し、野外ロケの大敵である悪天候すら臨機応変に取り入れる柔軟性が生んだものでもある。『ブレードランナー』の酸性雨にはじまり、雨や雪、綿毛などを画面上に降らせ続けた『レジェンド/光と闇の伝説』でセット美学を極める一方、『グラディエーター』や『キングダム・オブ・ヘブン』の冒頭に降る雪は、偶然降り始めた本物の雪だという。 暴力描写も、初期のスコット作品から観客に衝撃を与え続けている要因の一つ。スコットは、暴力的な要素が脚本の中にある場合、それを省いたり、抽象的な表現に置き換えたりといった事を、まずやらない。そこで、残酷描写は極めて苛烈なものになる訳だが、自身も述べているとおり、実は映画全体からすればほんの一瞬の出来事だったりするのだ。表現のインパクトが強烈なために、後々まで観る者の脳裏に焼き付いてしまうのだろう。 スコット曰く、「私がどんなバイオレンスを描きたいか知りたいなら、そうだな、フランシス・コッポラの暴力描写には一目置いている。彼の映画手法は実に無駄がなく、迅速に狙ったイメージを描き切る。リアルで効果的で、その前後にごまかしの美しい描写など挿入しない。あるのは死だけだ。突発的に発生する暴力を現実味たっぷりの世界に炸裂させる彼の技を取り入れたいと思っていたが、私がそれを真似しようとしても、いつも中途半端に終わってしまう」。 『ブラックレイン』や『悪の法則』では斬首のショックが観客を襲うが、これもスコットのトレードマークで、『キングダム・オブ・ヘブン』などはほとんど生首映画の趣。彼は又、手術の描写が本当に好きな人で、これも観客を辟易させる所。『キングダム・オブ・ヘブン』や『オデッセイ』、『悪の法則』にもちょっとしたセルフ手術の場面があるが、『ブラック・ホーク・ダウン』の縫合手術、『プロメテウス』の帝王切開シーンは、描写の直接性と長さにおいて異様なまでに突出している。 作劇で目立つのは、権力の移譲をしばしば描いている事。特に、賢明なリーダーから不適任者へ権力が移る事で暴力が氾濫するパターンが多く、『1492コロンブス』『グラディエーター』『キングダム・オブ・ヘブン』『ロビン・フッド』『エクソダス:神と王』は全てこの図式である(しかも多くが史実)。 歴史劇以外でも、『エイリアン:コヴェナント』では船長の交替が破滅を招き、『プロヴァンスの贈り物』における叔父からマックスへの相続、そしてマックスの不在によって職場の責任者を任されるケン、『ハウス・オブ・グッチ』の後継者争いもこのヴァリエーションと言える。 今、彼の作品を観直してみると、かつてスコットを「ストーリー・テリングができない」「語りが平板」と、まるで映像センスの監督のように評していた人達は、結局の所、彼の傑出した映像設計や美的感覚に目をくらまされ、それ以外の部分が見えていなかっただけだと言う他ない。スコットの語り口は冷静でスタティックだが、それは彼の様式感であって、ハリウッド流の饒舌さがないのを平板だというのはいかにも表面的で本質を見誤った言説である。 スコットは俳優に抑えの効いたリアルな演技を要求する一方、そこに込められたニュアンスの細やかさ、真情の深さは、一流とされる多くの映画と較べても図抜けている。『ブレードランナー』のラブ・シーン、『誰かに見られてる』の生き生きとした家族の会話、『ブラック・レイン』で両国の刑事が食卓を挟むシーン、『グラディエーター』における先王とコモドゥスの痛切な対話。硬質のタッチを貫きながら、そこに深々とした叙情の奥行きを付与する表現の彫りの深さは、凡百の監督と一線を画する。 これはスコットが一時期ドキュメンタリー映画を志していた事と恐らく関係があり、俳優に自然な演技をさせてドキュメンタリーの手法で撮るスタイルが、スコット作品の抑制されたトーンを決定付けている。シガーニー・ウィーヴァーは、「リドリーには、俳優の振舞いにどこか不自然な所があると、すぐにぴんとくる抜群の嗅覚があるのよ」と語っている。 事実、スコットは配役を重視していて、作品によってはハリウッド中の俳優と会うほどの勢いで奔走している。本人も、「キャスティングは、映画監督の最も重要な仕事の一つとみなしている。配役が決まれば、映画は半分以上できあがったも同然だ」と語り、既にデビュー作で自ら出演交渉までしている。俳優自身によるアイデアやアドリブも早くから積極的に取り入れていて、それらが巧みに取捨選択され、全体のトーンに統合されているのは、監督の研ぎすまされたセンスがあってこそである。 曰く、「『ブレードランナー』がきっかけで、私が俳優との付き合いを嫌い、俳優や脚本よりも風景に重きを置いているという指摘は、『誰かに見られてる』を撮っている間もずっと流れていた。私は“映画のデザインは演技や物語と同等に重要だ”と言ってきたが、“デザインの方が重要だ”と言った覚えはない。私は撮影の間ずっと、俳優が現実味をもって演じられるように注意を払い、彼らがそれを実践する様をそばで観察する」。 スコットのような監督には、決まって「人間が描けていない」という常套句が浴びせられるが、人物描写なんて掘り下げようと思えば幾らでも出来る一方、逆に、人間を描かずに映画を作る事など不可能である。およそどんな映画にでも当てはまるこんな簡便な言説を用いる評論家は、つまり何も言っていないのと同じである。スコットは対象から距離を置き、客観視する事に長けた監督だから、その実存的な資質が、感情面でドライに感じられるのは当然の事だ。 次に、スコットの仕事ぶりを見てみよう。彼の監督術の大きな特徴は、全ての場面をストーリー・ボード(絵コンテ)に描いて、事前にイメージを完璧に作り上げた上、現場でもどんどん新しいアイデアを加え、突発的な出来事も自在に取り入れてシーンを発展させている事。その意味で、彼は普通の監督と仕事のやり方が全然違う。本人も言っているが、彼が設計図(ストーリー・ボード)なしに映画を作る事はまずない。又、スタッフやキャストにイメージを伝達する際、彼はしばしば絵を描いて説明する。 ストーリー・ボードには画面のイメージだけでなく、キャメラの動きや照明プラン、音楽や特殊効果に至るまで、様々なメモが書き込まれている。スコットは脚本の草稿や美術スケッチにまでコメントを書き入むし、CGアーティストに詳細な指示を出し、音響ミックスでも矢継ぎ早に細かい注文を出す。彼は、全てを自分でコントロールする意思のある表現者であり、その透徹した眼差しはあらゆる局面に注がれている。 唯一、製作の過程で彼に問題があると思われるのが音楽。テンポラリー・ミュージック(テンプ・トラック。作曲家に見せる仮編集フィルムに付けた参考用音楽)として既成曲を付けるスコットのやり方は、しばしば作曲家に不快な思いをさせ、衝突を生んでいる。『エイリアン』のジェリー・ゴールドスミスは、新しく作曲した音楽を無惨に切り貼りされた挙げ句、テンプ・トラックについていた彼の旧作をそのまま残され、エンディングには別の作曲家の作品が使われた。 さらに『レジェンド/光と闇の伝説』でも音楽の差し替えがあり、ゴールドスミスは後々までスコットを「許さない」と言い続けた。『1492コロンブス』ではジャン=クロード・プティに依頼した曲をヴァンゲリスの音楽に差し替え、『白い嵐』でもモーリス・ジャールの既成曲をテンプ・トラックに付け、本人にそのイメージで作曲を依頼しておきながら、最後にジェフ・ローナの音楽と差し替えている。ハンス・ジマーも『マッチスティック・メン』で散々音楽をけなされて、以後は一緒に仕事をしていない。 作風は違うが、その性向や仕事のやり方に関して、彼はスティーヴン・スピルバーグと多くの共通点がある。出来るだけCGを使わず、セット美術と生身のアクションを生かす事。企画・準備段階から深く関わる事。撮影のスピードが非常に速い事。俳優の知名度にこだわらず、キャスティングを重視する事。末端のスタッフ、キャストに至るまで出来るだけ多くの意見に耳を傾け、撮影現場における直感やアイデアを臨機応変に取り入れる事。 準備作業には全く参加しない監督もいて、特にロケハン(ロケ場所探しや下見)は嫌がる人も多いそうだが、スコットはロケハンに同行するだけでなく、むしろ主導権を握るほど積極的。衣装合わせにも立ち会って細かく指示を出すし、俳優との脚本読み合わせにも大きく時間を割く。スコット作品は大規模な撮影が多く、現場に入ると議論している暇などないため、事前に役作りやセリフについて徹底的に話し合っておく事が重要だそうだ。 彼は自身で脚本を執筆しないため、作家性の希薄な職人タイプとみなされがちだが、実際には企画段階から関わり、脚本家と一緒に草稿から練り上げている。それでも自分で執筆しないのは、 「脚本家ほどうまくは書けないからだ。自分で書こうとは思わない。人生は短い。才能のある人間に任せるに限る」との事。優秀な人材を集める才覚と、うまく仕事を振る能力は、リーダーに必須である。 スピルバーグ同様、仕事が速くて撮影が効率的なのも有名。絶望的に撮影日数が不足していた『アメリカン・ギャングスター』でも、なんと176カ所377シーンをスケジュール内に撮り上げた。俳優のリアルな心理を生かすため、巨大セットも出来る限り実物大で建設する一方、斬新なアイデアを次々に繰り出してコストダウンに生かすのも彼の才覚。BBCの美術監督時代は、限られた予算枠で最大限の効果を得るアイデアを生み出すのが好きだったそうで、そこで培われた能力なのかもしれない。 『プロメテウス』のスタッフは、「リドリーの頭の中には突然アイデアがひらめくので、それに付いてゆくのが大変。どのチームも緊張していたが、みんな影響されて、気付けば監督と同じように熱くなっていた」と述べている。通常、メイキング映像も美術や特殊効果のくだりになると、もう誰の映画か分からなくなってくるものだが、スコット作品ではCGスタッフの口からも「リドリーの要望で」「リドリーのアイデアで」と、事あるごとに監督の名前が出るのが他と異なる所。 通常なら撮影中止となるような悪天候も画面に取り入れる臨機応変さは前述の通りで、雪や雨、霧はもちろん、『キングダム・オブ・ヘブン』では火災で損傷したセットさえも「素晴らしい!」と言って活用。意気消沈していたスタッフ、キャスト達を感激させた。既にデビュー前の自主映画『少年と自転車』でも、偶然見つけた犬の死骸をシーンに挿入している。 同時多発的に様々な出来事が起る複雑なシーン造形も、スピルバーグとスコットの得意とする所。『ブラックホーク・ダウン』の戦闘場面、『ハンニバル』の銃撃シーン、『プロメテウス』『エイリアン:コヴェナント』中盤のアクションなど、その例は枚挙に暇がない。 普通は物事を整理して分かりやすく見せたがるものだが、彼らは敢えて混乱を作り出し、混乱そのものをリアリティとして提示する。当然何が起っているのか分かりにくく、観客はもどかしさと不安に苛まれるが、それこそが狙いであって、それを「演出が下手になった」と書く評論家達も実に情けないものである。 『ブレードランナー』ではラストを書き換えられ、『レジェンド/光と闇の伝説』は再編集されて音楽を差し替えられるなど、スタジオ側の要求に応じた事で、一時はこだわりのない職業監督とみなされた事もある。しかし後のインタビューや研究書によって、当時のスコットが置かれていた苦しい状況も明らかになった。 彼は過去最悪の経験と語る『ブレードランナー』の製作を通じてすっかり自信喪失し、試写会の失敗に端を発する『レジェンド』の再編集騒ぎは、自分が興行的成功を第一に考えるような精神状態にあったせいだと認めている。そんなスコットの人間らしい弱さの吐露は、むしろ映画作家としては信頼に値するし、この経験が後の作品に生かされている事をうれしくも思う。 この失敗ゆえか、彼は試写会の反応で編集を変えてゆくハリウッド流のやり方に批判的である。曰く、「試写会とは妙な方法で、あくまで道具と考えるべきだ。何か月も掛けて準備し、撮影し、編集したものを、最初の試写だけであれこれ言わせるのか? 600人の内500人が理解できないなら別だが、注意深く見ていればそれでいいんだ」。 どちらの作品も、スコットは数年後に自身で再編集したヴァージョンを発表。作品の真価を改めて世に問うしたたかさを示し、ディレクターズ・カット・ブームの先鞭を付けたパイオニアとなった。ちなみにスコットは、削除したシーンをそのまま復活させた映像ソフトをエクステンデッド版と呼び、この場合は劇場公開版がディレクターズ・カットだと明言しているので、自身で編集したディレクターズ・カット版とは区別すべきである。 今ではスコットも、誰もが一緒に仕事をしたいと熱望する名監督になった。監督に強大なストレスがかかる大作の撮影現場で、彼が休日の散歩のようにリラックスしているのにみんな驚き、その態度が現場の空気を良くしていたと多くの俳優が証言している。 製作者マーク・ハッファム曰く、「リドリーは毎日を楽しむんだ。その日の仕事がどんな内容だろうと、目一杯楽しむ。そのムードが周囲に広がるんだ。彼が楽しそうだから、周りの者も楽しくなる」。こういう人生の楽しみ方はいかにもヨーロッパ人らしく、『プロヴァンスの贈り物』を思い出さずにはいられない。 |